私は44歳男性です。この病気のサイトがもし30年前にあったらとても元気つけられたかなと思います。
乳児の頃から中耳炎を繰り返し、慢性中耳炎を経過し10歳の時に真珠腫と診断されました。
当時は抗生物質を飲み続け、頭もぼうーっとしてくる子供時代で、今のように原因も今ひとつわからず、
体を鍛えることも無ければひたすらおとなしく通院していました。


【第1期】〜9歳 乳幼児・低学年時代
 急性中耳炎を繰り返し、大森の町医者にかかり完治せず。アレルギー性鼻炎や当時の排気ガスによる公害や
扁桃腺炎が原因と思われます。7歳の時には慢性中耳炎と言われました。
聞こえにくかったり、激しい痛みがあったりの繰り返しで対症療法のみでした。


【第2期】10〜12歳 横浜市民病院時代
 小学校の先生の家に遊びに行った夏休み、突然の耳の閉塞感を感じ、右耳の難聴と出血が症状として現れました。
横浜に引っ越していて空気は多少きれいで扁桃腺炎などはかかりにくくなっていましたが、町医者にかかっていました。
それまでも痛くなると鼓膜穿孔による治療を繰り返しており、どうもそれが病気を次の段階に進めたようです。
半年近く通院したものの、医者は何も言ってくれず、毎日沢山の患者に混じって待たされつつも
根気よく通っていました。帰りに近所のプラモデルを小遣いで買うのが楽しみで今にして思えばけなげです・・。
耳垂れは悪臭を放ち、血膿もあり黄色かったり緑がかっていたりで、
脱脂綿を取り替えるたびに子供心に不安もありました。
 
 長引くため、親戚に慶応病院の耳鼻科を紹介され、痛い治療と検査により「真珠腫」の診断を初めて受け、
長引くと言われ親はとてもショックを受けたようです。
ただ、横浜から信濃町までは遠く、そこでたまたま来ていた教え子の横浜市民病院の耳鼻科医を紹介されました。
ただそれは治療の回り道の始まりでした。その先生は咽喉科が専門で耳の方はあまり経験のない若い先生で、
週1回治療に行っても、鼻の方や喉を中心に見て、これはアデノイドをとって、
アレルギー性鼻炎を治さないといけないと言われました。
小学校もいつも遅刻し苦労して満員電車にゆられ朝早く並んで待つのに、
肝心の耳の治療をあまりして頂けなかったのが残念でした。小4の終わりに痛いアデノイド摘出の手術を受け、
鼻のほうは結局ハウスダストによるアレルギー性鼻炎と診断がつき、耳よりもそちらにかける時間が長く、
結局真珠腫の手術をして頂けたのはそこから1年半後小6の夏休みのことでした。
「子供は再発しやすいから体ができてからでないと・・・」というのが理由でしたが、
今にして思えばどうも医師の勝手に寄る時間延ばしに思えます。
 
 そして昭和48年の7月待望の手術を受けましたが、失敗でした。
全身麻酔であっという間に眠ってしまったのですが、麻酔量が子供には多すぎ、
意識不明が6時間続き舌が落ち込み呼吸困難の状態を引き起こしていたと、親からはあとで言われ、
目を覚ましたのは13:00手術開始後当日の23:30でした。
ぐるぐるまきの包帯の中、目を覚ましたもののその後は地獄でした。
多量の麻酔が体内に残り、激しい嘔吐を繰り返し、その都度医師や看護婦を呼び、
明け方ついに胃洗浄を行うほどで体力も衰弱し、耳の手術というよりも胃の手術のようでした。
しかし、さすがに子供の回復力は早くじきに元気になりましたが、
肝心の耳の方は術後1週間で既に黄緑色の耳垂れがでていて、
別の医師の冷たい表情の「ヒョレ(真珠腫性)」だね」の大きな一言がとても子供心に恐怖心をあおりました。
それなのに失敗の一言も言われず、1ヶ月も入院させられ、たびたび入院部屋も替えさせられ、
退院していく他の人を見るたびにうらやましく思ったものです。
この入院は、神経科の人や蓄膿症の手術の大人たちと過ごした経験の方が自分には印象的で、
励ましたり世話してあげたりしたため、自分が大人となる一歩だった気がします。
看護婦も今の時代のように親切でなく、従軍看護婦あがりのような人も沢山にて随分怖く、
あまりよい思い出はありません。
 
 退院後は週1回治療に通いましたが、点耳薬を入れて横になっているところに、
空気ポンプのような圧力をかけたりで、これがまた痛い上に、難聴が進んだ一因となりました。
どうも手術も真珠腫を奥に広げただけだったようで、今にして思えば、医療裁判にしてもよかったかも知れません。
当時は医師を信じていましたから、親も医師の言うようにして私を横浜市民病院へ連れて行っていました。

【第3期】13歳〜22歳 国立小児病院時代
 横浜市民病院の医師も自分の手におえないとようやく悟ったらしく、私が中1になる時に
東京世田谷区太子堂にある国立小児病院の真珠腫を専門にしている耳鼻咽喉科医、古賀慶次郎先生を紹介してくれ、
転院をしました。思えば早期からそうした対応ができていればもっと事態は違っていたと思います。
まだこのあとの治療に10年はかかるのですが、横浜市民病院に比べればはるかに治療のし甲斐があったと思います。
なぜなら、先生の右耳にも深い手術跡があり、似た病気を経験しておられるという安心感と治療の丁寧さがあります。
当時で40代後半くらいの無口な先生でしたが、慶応医専を出ている職人肌の気質は子供心にわかりました。
右耳の神経がだいぶ痛んでいたせいもありますが、治療に激しい痛みはなく我慢ができる範囲でした。
 
 とはいえ、手術は中1、中2, 大1と3回続きました。中でも中2の手術は重く、鼓室や耳小骨はすべて摘出し、
中耳を空洞にしてほらあな状態にして真珠腫のできる隙間を一切なくすという根治手術でした。
中1の手術でも真珠腫がとりきれなかったほどでかなり大きく奥へ進行していたようです。
手術は痛く、麻酔は半覚酔状態でありながら喉へチューブをさしこまれた記憶もあり、
手術後の手術台で声をかけられてかなり苦しかった記憶があります。
ただ小児病院でしたので、同じような手術に苦しんでいる子も多く、同室の一つ下の足の手術をした子も
同じ日に手術をし、同じように二人で一晩中うなっていました。
さながら戦友のようですが、看護婦さんたちも優しかった記憶があります。
 
 中2の手術後も耳垂れはあったものの、分泌液の範囲内で色も透明となりました。
ただ、中耳が洞穴状態なので垢がたまりやすく、風邪などひくと細菌がつきやすく、その時は悪臭を放つこともあって、
抗生物質を飲みながら一ヶ月に一度小児病院へ学校は遅刻や休みながら通院しました。
そうして、大学1年の時に鼓室形成手術として、洞穴部分に筋肉を充填しふさぐ手術を受けたわけです。
もう聴力は犠牲にしましたが、幸い正常な左耳が2倍の働きをするようになっていました。
 
 ただ大学1年になってからのこの手術は体が大人に近くなっていて、出血も多く切除部の傷が膿んでしまったりで、
なかなか傷口がふさがらず、それはそれで苦しい思いの1週間がありました。
耳だれは完全にはなくならなかったのですが、生活に差し支えはなく、
とにかく風邪をひかないように体力をつけていました。

【第4期】23歳 横浜市大病院
 就職も決まり、通院もままならない時期を控え、意を決し横浜市大病院を知人に紹介してもらいました。
さすがに20歳過ぎて小児病院もないので、古賀先生も私の転院の希望を聞いてほっとされた感じを受けました。
 大学卒業の春、昭和60年に最後の鼓室形成手術を受けました。
沢木先生のチーム4名ほどで、多少大学の実験台のような雰囲気はあったものの、
しっかり消毒の上筋肉充填手術を今度は右耳の前の穴の脇にメスを入れました。
耳の後ろはすでに薄くなっていたせいもあり、外傷がふさがりにくい欠点もあったようです。
この最後の手術は顔面麻痺が一月ほど残りましたが、幸い元へ戻り耳だれも外へ流れてくることは少なくなりました。

【第5期】24歳〜現在
 通院は全くしていません。転勤で一時芦屋の開業医のところで耳洗浄をしてもらったくらいで、
あとは現在の地元の開業医で点耳薬をもらったのが最後で、44歳となった現在耳だれは全くありません。
仕事で疲れたりすると、多少右耳が圧迫された鈍痛はありますが、生活に全く支障はなくなりました。
 現在は結婚をし、二人の子供に恵まれました。
おそらくこの10年は妻による力が大きいと思います。きちんとした栄養価の高い食事、
そして何よりも耳を定期的に綿棒で掃除してくれることもあると思います(笑)。
結婚当初はどろっとした飴上の耳だれでかなり驚いたらしく、
会社の医療相談センターに電話をかけてくれたほどで、心配をかけました。
 
 そして、働きながらも大学院を卒業でき、何とこの3月には絶対無理とあきらめていた子供時代からの長い夢、
水泳ができるようになりました。子供を連れ、泳ぎに行ったプールで足を滑らせ落ちたら、意外や意外、
めまいも無く泳げてしまった、という偶然なのですが・・・。人生どこかで帳尻があうものです。

 希望を失わなければどこかでよい事が起きます。それがどんな回り道でも出会った人たちとの経験を踏まえて
自分の宝となります。国立小児病院時代の大学1年の時は患者でありながら、人形劇に参画させて頂きました。
社会人となった今、病気を含めてすべてが自分の宝となりました。
病気をお持ちのお子さんはいずれそれが糧となってよい人生へ進んでいくと思っています。